【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 

第4回
中央大学 総合政策学部 国際政策文化学科 谷口 愛

 


バリ島での爆発テロ事件の第一報を聞いたのは、朝のラジオ放送でだった。とっさに様々なことが頭をよぎった。大学生活のうちの1年間を過ごしたインドネシア。けだるい空気がゆっくりと流れていく赤道直下の生活では、差し迫った危険を感じることは全くなかった。9・11以降、世界中で何かが変ってしまった。いや、そのずっと以前から少しずつ、歯車は狂いだしていたのだろう。かんかん照りの太陽の下、インド洋を望んで過ごしたあのときは、平和そのもののように思っていた。これから私が寄せるものはただの個人的な留学記に過ぎないが、バリ島の一件でインドネシアという国が少しだけスポットライトを浴びたことをきっかけに、一人の日本人大学生が見たインドネシアの別の側面を紹介できたらと思う。

(この留学記は、中央大学父母連絡会が発行している「草のみどり」151号〜154号に掲載されたものから抜粋したものです。)



 
1、インドネシア留学に至るまで
2、インドネシアでの大学生活 
3、ミナンカバウ族の人々
4、イスラームについて
5、インドネシアでの1年間


 

イスラーム

<ミナンカバウ族の結婚式 とにかく派手!>

昨年の9・11以降、何かとイスラームが騒がれるようになった。国教でこそないものの、インドネシアの人口約2億人のうち、9割近くがムスリム(イスラームを信仰する人)という世界最大のイスラーム人口を抱えた国である。私が1年間暮らしたスマトラ島の西スマトラ州もイスラーム色が強く、西スマトラのミナンカバウ人は敬虔なムスリムといわれている。私が在籍する総合政策学部にはイスラームの研究をなさっている先生がたくさんいらっしゃり、留学前は自分なりに少しはイスラームについて勉強したつもりであった。しかし、当たり前のことかもしれないが、本で読むのと、実際自分の身を置いてみるのとではまったく感じ方が違った。習うより慣れろ、百聞は一見にしかずといったところなのかもしれない。

宗教も場所と時代によって様々であることは言及するまでもなく、例えば中東のイスラームとインドネシアのイスラーム、また、インドネシア国内を見てもそれぞれの地域におけるイスラームでは少しづつ、違いがある。私の場合、西スマトラ州、パダンで生活していたので、この地に住むミナンカバウ族の中での「イスラーム」を紹介する。

私が留学していた2000年は11月末より1ヶ月、断食月であった。断食がなんであるかを知ってはいたつもりだったが、実際に体験してみると、思った以上に辛かった。断食月の彼らの生活ではまず、朝の3時半から4時に近くのモスクのスピーカーから「起きろ〜起きろ〜」という声が流れてくる。皆眠たい目をこすりつつ、食べ物を無理矢理胃の中へ詰め込む。そして、5時過ぎごろにモスクから、船が出港するような「ぼーっ、ぼー」という合図が鳴ったら1日の断食が始まる。断食中は食べ物はもちろん、飲み物も禁止。タバコも禁止。つばを飲み込むことでさえいけないとするムスリムもいる。そして大体夕方の6時ころになるとモスクからやけに明るい曲が流れ出し、6時半ころの「ぼーっ、ぼー」という音と共にその日の断食が明ける。断食が明けてからはまず、冷たい飲み物やフルーツポンチのような軽いものを口にし、お祈りをしてから、家族みんなでご飯を食べ始める。その日の断食が開けると、多くの人が普段より豪華な料理を、大量に食べる。普段の日には見られないような屋台がたくさん軒を連ねたりする。ミナンカバウ人に言わせると、断食は、はじめの1週間は辛いが、慣れてしまうと日中お腹も空かず、普段よりエネルギーが溢れてくると言う。昼間は寝るか、死んだようにしている人も、夕方になると、明るい面持ちで外へと出てくる。街には所狭しと屋台が並び、夕方の5時頃には夕飯の買出しの人たちで街はごった返す。また、それと対照的に、6時半を過ぎ、皆が食べ始める頃になると、道には人っ子一人、いなくなる。皆、食べるのに夢中なのであろう。このような生活が1ヶ月も続く。実際何度か一緒に断食してみたりもしたが、私のように全く関係ない人間にとってはたまったものではない。まず、人前で食べるどころか、この暑い国で日中、水を飲むことさえもはばかられる。そして、街のレストランはすべて閉まり、私には食べるすべがなくなる。中国人街のレストランは、例外で開いているものも少しはある。しかし、店の入り口はカーテンで覆われ、中が見えないようになっている。大多数のムスリムへの配慮ともとれるが、断食をしないムスリムも中にはいるわけで、そのような人達が後ろめたさを感じつつ、人目をはばかって、食事をするための隠しカーテンなのである。まだ留学してから日が浅く、どこの中国人レストランが「秘密」の営業をしているか知らなかった。そのため、毎日同じ食堂で鶏粥を食べた。1ヶ月間鶏粥を食べつづけた結果、今では見るのも嫌になった。断食中、私は、朝はこっそりと家で食事をし、昼は中国人街のカーテンの中で鶏粥を、そして、夜は断食が明けるのをひたすら待って、家族の人と一緒に食事をしていた。周りでは、夜、沢山食べてすぐ寝るという生活を続けているため肥えてくる人たちもいたがそれと対照的に、私は断食していないはずなのに、周りの環境への遠慮の気持ちから、みるみるうちにやせ細っていってしまった。

<モスクの中>

宗教を持たない私にとって、パダンでの宗教色の強い生活は貴重な体験となった。いや、むしろ、「苦しんだ」と言った方が合っているかもしれない。来た当初は自分が何も信仰していないことに負い目を感じてか、「自分はあくまでもお客様。彼らの生活を理解して合わせなければいけない」と思いことあるごとに自分の生活スタイルを曲げて譲ってきた。しかし、しばらく生活していると、人々はことあるごとに「イスラーム、イスラーム」といい、イスラームの神であるアッラーはどれだけ偉大か、イスラームはいかに素晴らしい宗教か、そしてその絶対性を得々と説く。しかし、一部の人間ではあるが、人を平気で騙そうとしたり、人を傷つけたり、自分がのし上がるためには平気で人を蹴落としたり、そして汚職がはびこり続けたりという現状があった。文化人類学を学ぶ者としてこのような感情は持つべきではないのはわかっているが、アッラーは偉大であると信じていれば、何をしても許されてしまうのか?と思ってしまったことも正直あった。イスラーム、イスラームと彼らは引けに出してくるが、彼らは宗教を「利用」してるだけではないかと強く不信感を抱いてしまう出来事が数多くあった。もちろん、本当に敬虔でイスラームの教えにきちんと沿って生活している人もたくさんいる。むしろ、そのような人たちのほうが多いと思う。また、コーランを読んでみて、納得できる部分もたくさんある。私がどう感じたかや本当の思いを正直にこのような公のものに載せるのはいかがなものかと随分と迷ったが、あくまでも私一個人の経験の一部分ということで書くことにした。上記の内容は決してイスラームを冒涜しているわけではなく、真面目に信仰している人々には敬意を表すが、一部の人間に対しては、幻滅したということを言いたかっただけである。

<パダンのブングスビーチにて>

インドネシアから帰国してもう1年以上になるが、今考えると一部の人間に腹を立ててばかりいた自分の度量の小ささを恥ずかしく思うばかりである。今ではイスラームの生活を肌で感じられたことを本当に貴重な経験であると思っている。以前の私には異なるものを受け入れる余裕がなかった。私が抱いた負の感情は、負のエネルギーしか生まなかった。多様な価値観が存在する現在、自分と異なるものを受け入れられるよう、気持ちに余裕をもって生活したい。


 つづく 

 

 

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